論文」カテゴリーアーカイブ

軽井沢・雲場池の起源と推移

軽井沢・雲場池の起源と推移

軽井沢の雲場池は観光の一中心です。軽井沢の地誌や観光案内の諸本・パンフレットの類いにこれについての解説がなされていますが、必ずしも現地調査や資料の収集分析が充分とはいえず、正確性に欠けるうらみがあります。本論文は既存の資料を総覧、雲場池の起源と推移を整理してみました。

浅間山天明大噴火による火砕流は、長野県側集落に肉薄しなかったのか -地元民からの問題提起-

浅間山天明噴火による火砕流は長野県側集落に肉薄しなかったのか.pdf

天明大噴火の際、浅間山の南斜面には顕著な噴出物は堆積しなかったとされています。先の論文、「濁川源泉部を埋没させた浅間山天明噴火物の正体」では、それを疑わせる古文書を吟味し、充分に信頼できること、そして南斜面にも火砕流が流れた可能性のあることを主張しました。

本論文は、地形、地質の観点から南斜面に火砕流が流れた可能性について検討しました。

 

濁川源泉部を埋没させた浅間山天明噴火物の正体

濁川源泉部を埋没させた浅間山天明噴出物の正体

浅間山は天明3年に大噴火しましたが、その際に、濁川という、佐久盆地の米作りにとって重要な河川の源頭部、「血ノ池」が約6m埋まり、幕府の援助の下、延べ1万7千人で土砂を取り除いたとの文書が残されています。しかしこれまでの研究によれば、該地域は天明大噴火の際、火山礫や火山灰、軽石の降下はほとんどなかったとされており、ここに大きな矛盾が生じます。この論文はこの文書の信頼性を検討し、充分に信頼に足るものであること、そして火砕流が天明大噴火の際に長野県側にも流下した蓋然性が高いことを主張しました。

 

 

中山道鉄道開通を見こした明治中期の軽井沢における開発行為-軍馬育成牧場と避暑・別荘地-

明治中期の軽井沢における開発行為 縮小版

この論文は、東信史学会の機関誌『千曲』の第164号、2017に掲載されました。

軽井沢を通過していた信越本線は、そもそも中山道鉄道として計画され、敷設が進められました。中山道鉄道は、意外にも我が国唯一の幹線鉄道として位置づけられ、例の横浜-東京を結んだ最初の鉄道も、その支線に過ぎませんでした。このように中山道鉄道の位置づけは極めて高く、その利便を享受すべく沿線での各種の開発行為が計画され、実行されました。しかし軽井沢の歴史研究において、このことは充分には検討されてこなかったように思います。

鉄道の利便を真っ先に理解し、早く手を打ったのは、軍であり外国人でした。

柴五郎らによる軽井沢地域の迅速測図と軍馬育成計画

柴らによる迅速測図と軍馬育成計画

この論文は日本地図学会の機関誌『地図』、Vol.55、No.3、通巻219号、2017に掲載されました。

陸地測量部(現在の国土地理院)による最初の5万分1地形図が大正元年に発行されます。この20年以上前の明治22年に、義和団事件の際、国際的に勇名を馳せ、後に陸軍大将となった柴五郎らによって1万分1地形図が作成されています。明治22年といえば直江津-上野間の鉄道が開通した翌年、また軽井沢が別荘地として使われだして間もないころであり、未だ、原野が卓越した当時の面影を伝えています。

この地図は軍馬育成所を軽井沢に設置するため、陸軍参謀本部の事実上のトップ、川上操六の命令により作成されたものと思われますが、鉄道が急速に全国に普及し、軽井沢の「卓越性」が相対的に下がったことにより軍馬育成所は実現しませんでした。

昭和12年作成・輕井澤町航空測量寫眞圖の「発見」と戦前の写真測量事情

軽井沢町航空写真図の発見と戦前の写真測量事情

この論文は日本地図学会の機関誌『地図』、Vol.55、No.1(通巻217号)、2017に掲載されました。

軽井沢町歴史郷土資料館(離山)の片隅に、航空写真測量図が掲げられています。しかし何の説明書もないために、どのように見れば良いのか、どのように大切なものなのか、わかりにくいのが現状です。

昭和12年といえば日中戦争が始まった年。この影響でしょう、鉄道は軍事機密として塗りつぶされています。当時、軽井沢の主要な産業であった天然氷の製造池が多数写っている、家屋数は未だ少ない、樹木は少なく、あっても幼木が多い、など当時の景観を記録したものとして貴重です。

当時にも東京、大阪、京都などの航空測量図が作られていました。しかし軽井沢町のような町制を敷いたところでの現物の「発見」は初めてのことであり、航空大国であった当時の日本において、都市のみならず町村域のいても都市計画のための航空測量が盛んに行われていたことが明らかになりました。指定文化財の値打ちが充分にあるものです。

近世移行期における浅間根腰三宿の移動-あわせて3D地図の有用性を検証する- その一 軽井沢宿、 その二 沓掛宿・追分宿

icon_1r_48 近世移行期における浅間根腰三宿の移動

これまでも軽井沢地方の各宿場は、元々は別の場所にあり、火災や洪水などの災害により今日の場所に移ってきたといわれてきました。しかしいずれも確かな資料がなく本当かどうかもわかりませんでした。本論文では、過去の地形を復元し、それらの伝承がほぼ正しいことを裏付けるとともに、場所が移動した時期はいずれも近世移行期、つまり戦国・安土桃山時代から江戸時代に移るころであり、宿場の立地が防衛よりも民生により配慮できるようになったためと結論付けています。

本論文は二つの論文ですが、PDFでは一つにまとめています。

 

 

長倉牧の軽井沢比定説について-3D地図などによる検証-

icon_1r_48「千曲」No.160、長倉牧 

古代における天皇家の牧場の一つ、「長倉牧」が軽井沢にあったとされてきました。ところがその遺構とされる土堤が、3D地図などにより古代末に流れてきた追分火砕流の上に載っていることが明らかになりました。何人もこの土堤が中世以降のものであることを比定できませんから、土堤も長倉牧のものでないことは明らかです。近年の学術書の多くは、これも軽井沢とされてきた長倉駅や長倉神社が農業生産力の乏しい軽井沢にあったとするには無理があり、小田井あるいはさらに標高の低い佐久市あるいは小諸市にあったとしていますが、本論文は長倉牧も同様であったと結論付けています。

 

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その四

icon_1r_48信濃史学会誌「信濃」、第68巻、3号、2016、掲載

別荘地・軽井沢の揺籃期を語るにはタブーがあります。当時、外国人の不動産取得は禁止されていたので、日本人名義で別荘を取得したのですが、それは脱法的行為でした。明治20年代の半ばには警察が実態把握のために村民達への厳しい尋問を行いましたし、帝国議会でも軽井沢の実態が大きく取り上げられ、時の伊藤博文政権は議会を解散せざるを得ないほどの大騒動に繋がりました。しかし軽井沢の諸著作の底本となっている当時の地元名士による著作には一切、そのようなことは触れられていません。真相が隠されていることは明らかです。
そこで本論文では、上記の底本に頼らず、警察調査報告と土地台帳、そしてショー師の家族内での手紙をもとに、ショー師およびその関係者の別荘取得の実状を検討しました。するとこれまでいわれてきたこととは随分異なる新事実が明らかとなってきました。


 

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その三

icon_1r_48
信濃史学会誌「信濃」、第68巻、第2号、 2016
、掲載

カナダ生まれの宣教師・ショー師が今日の軽井沢をもたらした、との言説は、軽井沢を扱った書き物にあふれています。しかし彼の行為の何がそれに該当するのかということになると、はっきりしないのが現状です。
ショー師が軽井沢の発見者としばしばいわれます。そこで本論文では先ず、公刊された旅行記や旅行免状などをもとに彼以前に軽井沢を訪れた外国人達を探索しました。すると、数百人にも達する外国人が軽井沢に来ていることが明らかになりました。彼が多くの外国人を軽井沢に呼び寄せた、とされることについても、性格的に過大評価することは出来ず、むしろアーネスト・サトウの宣伝力が大きかったこと、そしてショー師の上司であるビカステス主教の影響力を抜きにして議論を進めるべきでないことを明らかにしたつもりです。