投稿者「gakuuser」のアーカイブ

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その二

icon_1r_48 信濃史学会誌「信濃」、第67巻、第9号、2015、掲載

戦前の日本の高原別荘地は、ほとんど全て外国人によって拓かれました。それがどうしてなのかを本論文で検討しました。
外国人が高原別荘地の開設を先導的に進めたのは、外国人が暑さに弱いからでもなく、彼らの「先進文化」を持ちこんだわけでもありません。せめて夏休みくらいは類似の言語を有し、また同じ価値観や経済水準を備えた外国人だけで過ごしたいという、ある意味で人間の本性に基づく排他的な欲求があったからです。また人種的、文化的に優越感を持っているにもかかわらず、自分達だけが居住や旅行の自由を奪われているという、不満と鬱屈も大きく関係していました。そして日本における少数民族としての立場と、居住・旅行などの不自由が近日中に法的に解消されるとの判断がありました。これらが外国人をして高原別荘地を開設せしめたというのが本論文の結論です。

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その一

icon_1r_48 信濃史学会誌「信濃」第67巻、8号、2015、掲載

これまでの軽井沢研究の多くは、軽井沢だけに焦点を当ててきたように思います。ものごとは他との比較によって明らかになるもの、もし、「軽井沢がいちばん」という観念が影響しているとすれば、直さなければなりません。
この論文は、箱根、日光、六甲などの他の高原別荘地との比較によって軽井沢の特徴を明らかにしようとしたものです。

大正末~昭和初年における軽井沢の実像ー医院診断書より見るー

icon_1r_48 東信史学会誌「千曲」、第155号、2014掲載

軽井沢は華やかなイメージで語られがちですが、直視しなければならない厳しい現実もあります。
「死亡診断書」や「健康診察書」は個人情報の最たるものであり、通常は第三者の目に触れるものではありませんが、大正末~昭和初めの「控え」が軽井沢のある医院の子孫宅に残っていました。それが語るものは、庶民の厳しい生活や多い密淫売です。これらは当時の他の地域と極端に異なるものではなかったかもしれません。しかし軽井沢には極端に大きな経済格差がありました。「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」という言葉がありますが、例え貧しくとも皆が同様であれば貧しいとは自覚しないものです。他との比較によってそれを知り、彼我の差が極端に大きければ、惨めな思いをすることも多かったでしょう。これは現在にも通じる軽井沢の問題です。
また軽井沢は戦後に至るまで自殺を目的に来訪する場所でもあったようです。
論文はこれらを明らかにします。

浅間山南麓における融雪型火山泥流と追分宿の発展

icon_1r_48東信史学会誌「千曲」 No.150 2012  、掲載

積雪地における火山災害で、最も警戒すべきは火山融雪泥流です。三浦綾子の小説「泥流地帯」に取り上げられた北海道十勝岳融雪泥流1926年5月)はその良く知られた例であり、人口密度の小さな地域でありながら144名の死者・行方不明者を出しました。
軽井沢町においても、融雪泥流を念頭においたハザードマップが公開されています。しかし過去における融雪泥流の記録となると、群馬県側のものだけが記されているため、住民からは、行政は無用の混乱を招いている、との批判が寄せられています。しかし軽井沢町にも冬季に洪水があったとの伝承はあり、また隣町の御代田町ではやはり冬季の洪水により大量の土砂が押し出されて、湯川本川が堰き止められて湖が出現したとの具体的な伝承が残されています。
本論文では、地形学的にその伝承の実在性が確認できるとしました。しかしその後、国土防災技術KKの小菅さんより、私の主張の誤りが正しくも指摘され、伝承の裏付けが無くなってしまいました。しかし伝承の内容は具体的です。そこで再調査を行い、融雪泥流が発生した証拠を新たに見つけた気になっています。早く修正論文を書くべきところ、後回しになってしまっています。
追分宿が、融雪泥流の発生と時期を同じくした御影用水の開削によって、本格的に成立したとの主張は変わりありません。

碓氷峠道の変遷(上)、(下)

icon_1r_48碓氷峠道の変遷、信濃史学会誌「信濃」、Vol.65、No.1、3、2013、掲載

 

多くの方は誤解していますが、尾根は山地の中で最も穏やかな地形をなしています。川の浸食が最も弱いからです。山で遭難しかかったら、下るのではなく登れという金言、あるいはスキー場の初級・中級斜面の多くは尾根であり、上級斜面は谷であることが多い、などはそのためです。

関東地方と中部地方を区切る碓氷峠、そこを近世の中山道、中世、古代の東山道が越えていきました。しかし碓氷峠をはさんでどの地点を通っていったのか、よくわかっていませんでした。私は先ず中山道について、現地調査に加えて、伊能図や江戸時代に作成された絵図を参照し経路を検討しました。その結果、時代がさかのぼるほど尾根あるいはそれに近いルートを取っており、次第にトラバース道へと変化していることを突き止めました。尾根を辿る道の弱点はアップダウンがあったり、勾配の変化がはげしく、疲れてしまうことです。そこで時代が下るとともに工事を積み重ね、歩きやすいように勾配をなるべく平準化したトラバース道に変わっていったのです。
東山道の時代、それは碓氷峠ではなく入山峠を通っていたとの説があります。しかし当時の土工力では、入山峠を規格の高い官道を通すことは無理だったと考えています。現代では、入山峠を通過する碓氷バイパスをはじめ自動車道路のほとんどが谷沿いに走っていますが、それは明治以降、大量の土工力を動員した結果であり、長い歴史上からは特異な現象なのです。

軽井沢地名の成立

icon_1r_48軽井沢地名の成立(PDF)信濃史学会誌「信濃」、第65巻、第10号、2013、掲載

「軽井沢」は東日本を中心に約50ある比較的ポピュラーな地名です。私はその内、約30地点を訪ねて共通する土地条件があるのかどうかを探ってきました。結論は「背負沢」ということです。今でも九州や山口、三重では背負うことを「かるう」といいます。これを形容詞化して沢をつけると「かるひざわ」となります。そしてこの中の「ひhi」のhが取れて「かるいざわ」となりました。かつて柳田国男が唱えた説と思われますが、御著書に誤植があるのか正しく伝わっていないフシがあり、改めて論文にまとめた次第です。

リゾート地 軽井沢の風土

icon_1r_48リゾート地軽井沢の風土

雑誌「地理」Vol.56、1,2,3月号、2011、掲載

別荘地・軽井沢の発展に様々な人々の努力が与っているのは事実でしょう。しかし人間の力は所詮はかぼそいもの。今日の軽井沢をもたらした第一のものは、その恵まれた立地であったことは確実です。しかしながら、これについて詳しく論じられたことはあまりありませんでした。「リゾート地 軽井沢の風土」はこの立地特性に焦点を当てたシリーズです。

1月号は、軽井沢高原がどのようにして成立したのか、関東近縁の高原に比べて、非常に広い空間を占めていることを明らかにしています。
2月号は、軽井沢の立地や、特有の地形が交通の要衝となったことを示しています。
3月号は、標高の高さと水系の未発達が農業に適さない湿地を生み、それが軽井沢をリゾートに必要な、日本人にとって非日常的な空間を形成したことを論じています。

何故、外国人は日本のスキー場に来るのか −知られざるその特性−

PDF何故、外国人は日本のスキー場に来るのか −知られざるその特性− (信濃史学会)

信濃史学会誌「信濃」 第64巻 第11号、2012、 掲載

自分のことはわからないもの。日本人にとっての日本のスキー場も同じことです。
日本のスキー場の雪は「パウダー」で良い、という外国人の評価は日本人にも知られています。しかし欧米はもっと寒いのですから降雪直後は当然「パウダー」です。日本は世界一の豪雪地帯です。したがって、日本はいつでも「降雪直後」の状態であり、パウダーを楽しめる時間が長いということなのです。

2007年9月台風9号による軽井沢地方の倒木被害 ー軽井沢の本来の自然を知るー

icon_1r_482007年9月台風9号による軽井沢地方の倒木被害 ー軽井沢の本来の自然を知るー、軽井沢自然地理研究会、2009年9月

2007年9月に、軽井沢地方は10万本ともいわれる大量の倒木が発生しました。そして数日以上の大停電、交通杜絶などが発生、町民や観光事業に甚大な被害をもたらしました。
調べてみますと、軽井沢地方は大体、20年に一度の頻度で大倒木災害が発生しています。防災は、過去の災害から学ぶことから始まります。本来なら、行政当局が被害調査をするのだと思いますが、そういった動きが見えませんでしたので、私達で調べた結果がこの報告書になりました。
法律で各市町村は地域防災計画を定期的に作ることになっています。軽井沢町もそれを作っているのですが、軽井沢における最も頻度の高い倒木は対象になっていません。繰り返し、倒木も想定災害に入れるようにお願いしているのですが・・・。