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中山道鉄道開通を見こした明治中期の軽井沢における開発行為-軍馬育成牧場と避暑・別荘地-

明治中期の軽井沢における開発行為 縮小版

この論文は、東信史学会の機関誌『千曲』の第164号、2017に掲載されました。

軽井沢を通過していた信越本線は、そもそも中山道鉄道として計画され、敷設が進められました。中山道鉄道は、意外にも我が国唯一の幹線鉄道として位置づけられ、例の横浜-東京を結んだ最初の鉄道も、その支線に過ぎませんでした。このように中山道鉄道の位置づけは極めて高く、その利便を享受すべく沿線での各種の開発行為が計画され、実行されました。しかし軽井沢の歴史研究において、このことは充分には検討されてこなかったように思います。

鉄道の利便を真っ先に理解し、早く手を打ったのは、軍であり外国人でした。

柴五郎らによる軽井沢地域の迅速測図と軍馬育成計画

柴らによる迅速測図と軍馬育成計画

この論文は日本地図学会の機関誌『地図』、Vol.55、No.3、通巻219号、2017に掲載されました。

陸地測量部(現在の国土地理院)による最初の5万分1地形図が大正元年に発行されます。この20年以上前の明治22年に、義和団事件の際、国際的に勇名を馳せ、後に陸軍大将となった柴五郎らによって1万分1地形図が作成されています。明治22年といえば直江津-上野間の鉄道が開通した翌年、また軽井沢が別荘地として使われだして間もないころであり、未だ、原野が卓越した当時の面影を伝えています。

この地図は軍馬育成所を軽井沢に設置するため、陸軍参謀本部の事実上のトップ、川上操六の命令により作成されたものと思われますが、鉄道が急速に全国に普及し、軽井沢の「卓越性」が相対的に下がったことにより軍馬育成所は実現しませんでした。

昭和12年作成・輕井澤町航空測量寫眞圖の「発見」と戦前の写真測量事情

軽井沢町航空写真図の発見と戦前の写真測量事情

この論文は日本地図学会の機関誌『地図』、Vol.55、No.1(通巻217号)、2017に掲載されました。

軽井沢町歴史郷土資料館(離山)の片隅に、航空写真測量図が掲げられています。しかし何の説明書もないために、どのように見れば良いのか、どのように大切なものなのか、わかりにくいのが現状です。

昭和12年といえば日中戦争が始まった年。この影響でしょう、鉄道は軍事機密として塗りつぶされています。当時、軽井沢の主要な産業であった天然氷の製造池が多数写っている、家屋数は未だ少ない、樹木は少なく、あっても幼木が多い、など当時の景観を記録したものとして貴重です。

当時にも東京、大阪、京都などの航空測量図が作られていました。しかし軽井沢町のような町制を敷いたところでの現物の「発見」は初めてのことであり、航空大国であった当時の日本において、都市のみならず町村域のいても都市計画のための航空測量が盛んに行われていたことが明らかになりました。指定文化財の値打ちが充分にあるものです。

近世移行期における浅間根腰三宿の移動-あわせて3D地図の有用性を検証する- その一 軽井沢宿、 その二 沓掛宿・追分宿

icon_1r_48 近世移行期における浅間根腰三宿の移動

これまでも軽井沢地方の各宿場は、元々は別の場所にあり、火災や洪水などの災害により今日の場所に移ってきたといわれてきました。しかしいずれも確かな資料がなく本当かどうかもわかりませんでした。本論文では、過去の地形を復元し、それらの伝承がほぼ正しいことを裏付けるとともに、場所が移動した時期はいずれも近世移行期、つまり戦国・安土桃山時代から江戸時代に移るころであり、宿場の立地が防衛よりも民生により配慮できるようになったためと結論付けています。

本論文は二つの論文ですが、PDFでは一つにまとめています。

 

 

長倉牧の軽井沢比定説について-3D地図などによる検証-

icon_1r_48「千曲」No.160、長倉牧 

古代における天皇家の牧場の一つ、「長倉牧」が軽井沢にあったとされてきました。ところがその遺構とされる土堤が、3D地図などにより古代末に流れてきた追分火砕流の上に載っていることが明らかになりました。何人もこの土堤が中世以降のものであることを比定できませんから、土堤も長倉牧のものでないことは明らかです。近年の学術書の多くは、これも軽井沢とされてきた長倉駅や長倉神社が農業生産力の乏しい軽井沢にあったとするには無理があり、小田井あるいはさらに標高の低い佐久市あるいは小諸市にあったとしていますが、本論文は長倉牧も同様であったと結論付けています。

 

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その四

icon_1r_48信濃史学会誌「信濃」、第68巻、3号、2016、掲載

別荘地・軽井沢の揺籃期を語るにはタブーがあります。当時、外国人の不動産取得は禁止されていたので、日本人名義で別荘を取得したのですが、それは脱法的行為でした。明治20年代の半ばには警察が実態把握のために村民達への厳しい尋問を行いましたし、帝国議会でも軽井沢の実態が大きく取り上げられ、時の伊藤博文政権は議会を解散せざるを得ないほどの大騒動に繋がりました。しかし軽井沢の諸著作の底本となっている当時の地元名士による著作には一切、そのようなことは触れられていません。真相が隠されていることは明らかです。
そこで本論文では、上記の底本に頼らず、警察調査報告と土地台帳、そしてショー師の家族内での手紙をもとに、ショー師およびその関係者の別荘取得の実状を検討しました。するとこれまでいわれてきたこととは随分異なる新事実が明らかとなってきました。


 

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その三

icon_1r_48
信濃史学会誌「信濃」、第68巻、第2号、 2016
、掲載

カナダ生まれの宣教師・ショー師が今日の軽井沢をもたらした、との言説は、軽井沢を扱った書き物にあふれています。しかし彼の行為の何がそれに該当するのかということになると、はっきりしないのが現状です。
ショー師が軽井沢の発見者としばしばいわれます。そこで本論文では先ず、公刊された旅行記や旅行免状などをもとに彼以前に軽井沢を訪れた外国人達を探索しました。すると、数百人にも達する外国人が軽井沢に来ていることが明らかになりました。彼が多くの外国人を軽井沢に呼び寄せた、とされることについても、性格的に過大評価することは出来ず、むしろアーネスト・サトウの宣伝力が大きかったこと、そしてショー師の上司であるビカステス主教の影響力を抜きにして議論を進めるべきでないことを明らかにしたつもりです。

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その二

icon_1r_48 信濃史学会誌「信濃」、第67巻、第9号、2015、掲載

戦前の日本の高原別荘地は、ほとんど全て外国人によって拓かれました。それがどうしてなのかを本論文で検討しました。
外国人が高原別荘地の開設を先導的に進めたのは、外国人が暑さに弱いからでもなく、彼らの「先進文化」を持ちこんだわけでもありません。せめて夏休みくらいは類似の言語を有し、また同じ価値観や経済水準を備えた外国人だけで過ごしたいという、ある意味で人間の本性に基づく排他的な欲求があったからです。また人種的、文化的に優越感を持っているにもかかわらず、自分達だけが居住や旅行の自由を奪われているという、不満と鬱屈も大きく関係していました。そして日本における少数民族としての立場と、居住・旅行などの不自由が近日中に法的に解消されるとの判断がありました。これらが外国人をして高原別荘地を開設せしめたというのが本論文の結論です。

別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その一

icon_1r_48 信濃史学会誌「信濃」第67巻、8号、2015、掲載

これまでの軽井沢研究の多くは、軽井沢だけに焦点を当ててきたように思います。ものごとは他との比較によって明らかになるもの、もし、「軽井沢がいちばん」という観念が影響しているとすれば、直さなければなりません。
この論文は、箱根、日光、六甲などの他の高原別荘地との比較によって軽井沢の特徴を明らかにしようとしたものです。

大正末~昭和初年における軽井沢の実像ー医院診断書より見るー

icon_1r_48 東信史学会誌「千曲」、第155号、2014掲載

軽井沢は華やかなイメージで語られがちですが、直視しなければならない厳しい現実もあります。
「死亡診断書」や「健康診察書」は個人情報の最たるものであり、通常は第三者の目に触れるものではありませんが、大正末~昭和初めの「控え」が軽井沢のある医院の子孫宅に残っていました。それが語るものは、庶民の厳しい生活や多い密淫売です。これらは当時の他の地域と極端に異なるものではなかったかもしれません。しかし軽井沢には極端に大きな経済格差がありました。「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」という言葉がありますが、例え貧しくとも皆が同様であれば貧しいとは自覚しないものです。他との比較によってそれを知り、彼我の差が極端に大きければ、惨めな思いをすることも多かったでしょう。これは現在にも通じる軽井沢の問題です。
また軽井沢は戦後に至るまで自殺を目的に来訪する場所でもあったようです。
論文はこれらを明らかにします。